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第七回久坂玄瑞1

第六回は久坂玄瑞です。そろそろ新撰組もやりましょうかねw
土方や沖田あたりからで
あ~でも薩摩もやらなくちゃ

久坂玄瑞1840年(天保11年)~1864年(元治元年)
久坂玄瑞


すぐれた人物の多い幕末の人物の中でも飛びぬけた天才として知られています。若くして死んだため、一般での知名度は名前だけ聞いたことある程度ですが、当時の時代劇などにはほぼ確実に出てくるでしょう。

外見は凛々しいですね。道着のせいで熱血そうに見えてしまいますねww
しかも声がでかいです。ここまで聞いたら性格は熱かったんじゃないかと考えてしまいそうですが、まじめでクールだったそうです。まぁまぁのイケメンですしねwおまけに当時で身長は180cmほどあったそうです。

出生
久坂の出生は医者です。萩藩医久坂良迪の息子として生まれます。初名 秀三郎

優秀だった兄玄機に影響を受けて育ちます。父は取り立てて優秀でもなかったので、兄を尊敬していたそうですね。

当時評判だった吉松塾に通い、そこでも非常に優秀だったそうです。
また、この時期に高杉晋作と出会っています。

家族の死

秀三郎が14歳のとき母が亡くなります。

さらには15歳のときには兄玄機が、それから間もなく父も亡くなります。

なんと、秀三郎は1年ちょっとで家族をすべて失うのです!
これは
星セントルイスの病死と同じぐらいの悲劇だと思いますw

特に尊敬する兄玄機の死は大きかったでしょう。
そして、家督を継ぎ玄瑞と名を改めることになります。

次回に続きます。
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第六回坂本龍馬2

勤王党結成
桜田門外の変以降尊王攘夷の思想が土佐藩下士の間に伝わります。

同年半平太が土佐を武者修行の名目で出発します。
実際は各地を回って尊王攘夷派と知り合うことが目的です。
ずるがしこい武市らしいことをします。

そして、久坂玄瑞や樺山三円と知り合い土佐藩が後れを取っていることを知るんですねw
まぁあの公武合体派の吉田東洋が実権を握ってる時点でアウトなんですが

そして、自分たち下士が実権を握らなければと思い、
土佐勤王党を結成します。

勤王党には武市を旗頭として、中岡慎太郎、平井収二郎、那須信吾、間崎哲馬、吉村寅太郎、岡田以蔵、北添佶摩らが集まります。

上士にも尊王攘夷派は少なからずいるんですが、皆とんでもない腰ぬけ野郎で、土方久元ぐらいしか来ませんでした。(収二郎は上士説あり)

脱藩
武市は藩論をまとめることに必死で、勤王党をつくっときながら特に何もしませんでした。

まぁ、これは大事なことなんですが。しかも武市は諸藩の動向を探ったりしているため。
最近の攘夷の傾向を決して無視はしませんでした。

しかし、土佐には吉田東洋という厄介者がいるため藩論をまとめるのは相当むずいでしょう。

そんな武市に諦めがついたのかついに吉村が脱藩します。

武市に慕われていた吉村が脱藩したんですから、当然、龍馬もそれを聞きます。
脱藩しようと考え、悩んだ末に勤王党の後輩でもあり、後に海援隊の重要な役割を担う沢村惣之丞とともに脱藩します。

道中友人の那須信吾の家に泊まり、信吾の父の俊平の手伝いを経て脱藩します。

それから間もなく・・・・・・・
土佐の藩論を180度ひっくり返す大事件が起きます。
夜道、吉田東洋が歩いていた。そこに3人の武士が
武士たちは刀を引きぬいた。当然武市の手下である。
3人の剣が東洋を襲います。

そう、東洋暗殺です。

藩論を変えられないと悟った武市が最後の手段をとったのです。

ちなみにこの3人。まぁ信吾と安岡嘉助、大石団蔵ですねwも後に脱藩します。

旅路
龍馬と惣之丞、信吾、安岡、大石は長州に、吉村は京都に逃げ込みます。

ちなみに吉村は寺田屋事件に巻き込まれて、土佐へ送還されてるんですね・・・

まぁ、当然東洋が暗殺されたのとほぼ同時期に脱藩したんですから、龍馬も東洋暗殺の容疑者になるんですよ。
土佐の使者たちが龍馬を捕縛しにやってきます。

龍馬は大阪に隠れた後、江戸に向かいます。

なお、この時期に武市たちは京都に来ており、龍馬を捕縛しに来た井上佐市郎たちは以蔵に暗殺されてます。思えばこれが以蔵の初人斬りなんですよ。

武市は久坂たちとともに朝廷をも動かす力を持ち、以蔵は人斬り以蔵として京で恐れられる存在となります。

勝海舟
龍馬は8月ごろ、江戸について再び千葉道場に住み着きます。

その後、重太郎から、勝海舟の話を聞いて、怒って重太郎とともに暗殺しに行って、勝を暗殺しに行くも、逆に勝の話を聞いて、勝に心酔して弟子になるといった、バカなこと極まりないエピソードだったと言われていますが、

近年ではこれが否定されています。

最近の説では外国のことをどう思っているか勝に聞くために、同じく脱藩した間崎、長次郎とともに千葉の紹介で松平春嶽に会って、勝への紹介状を書いてもらい、勝の家に行って話を聞いて、長次郎とともに弟子入りしたという説が一般的で、大河ドラマ龍馬伝でもこれが採用されています。

なお、この時期に勝の恩人の幕臣、大久保一翁から、大政奉還などの話を聞きます。
思えば大政奉還の真の立役者は龍馬ではなく、大久保ですよ、ハイ

また、勝のとりなしで土佐前藩主山内容堂に脱藩を許してもらいます。

次回に続きます。

第五回桂小五郎1

第五回は桂小五郎です。
言うまでもなく木戸孝允です。
穏健派攘夷の代表格として知られていますね。
桂小五郎1833年(天保4年)~1877年(明治10年)
katsura.jpg
彼は非常に繊細な性格だったらしいです。
晋作や西郷の影に隠れがちですが、それは彼が常識人だったからでしょう。
西郷も晋作も常識離れしていたからね

小五郎の少年時代
小五郎は1833年に藩医、和田昌景の息子として生まれました。
7歳のときに武士、桂家の養子となり、翌年和田家に戻ってきます。

katura1.jpg
小五郎生誕地

小五郎はいたずら好きだったと言われてます。
冷静な小五郎とはイメージがつきませんね

10代になると藩主・毛利敬親に気に入られ、褒賞をもらっています。

16歳のときに母、さらには姉まで死んでしまいます。

悲しみにくれながらも、17歳のとき藩校の明倫館に入学します。
そこである人物に出会います。
そう、吉田松陰です。
松陰は当時、明倫館の師範でした。小五郎は松陰に兵学を学び、松陰は小五郎のことを高く評価しています。
あ、言っておきますが小五郎は松下村塾生ではありませんよ^^
でも、松塾生徒はかかわりが深く、晋作や伊藤博文などに良き兄貴分として親しまれました。

剣術と学問
小五郎は1846年に新陰流の内藤作兵衛の道場に入門し、もともとの才能もあり、腕をバリバリ上げていきます。
1852年江戸に剣術修行に行きます。

江戸三大道場の斎藤弥九郎の練兵館に入門し、神道無念流の免許皆伝となり、塾頭になります。

藩命で帰国するまで間に剣豪として日本全国に名をとどろかせます。

思えばこの小五郎にせよ、龍馬、近藤勇、武市半平太、斎藤一、勝海舟、土方歳三、沖田総司幕末の英雄たちは剣術の達人も結構いますね。

-1854年 ペリー二度目の来航-
このときに江川太郎左衛門に頼んでペリー艦隊を見学します。

異国の恐ろしさを知った小五郎は砲術や造船術、外国語など、異国の知識を取り入れていきます。

松陰処刑
1858年、幕府が天皇の許可なくアメリカと日米修好通商条約を結んだことを知って起こった松陰は、条約を結んだ間部詮勝の暗殺計画を企て、弟子たちにも協力を頼みますが、協力しようとしたのは入江九一ぐらいで、小五郎も猛反発しました。松陰は晋作に協力を頼みますが晋作にも反対され計画は失敗します。

間もなく松陰は捕えられ、長州の野山獄につながれます。

安政の大獄が始まると、松陰は江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、罪は島流しになろうとしていましたが、井伊直弼は斬首という判決を出し、松陰は処刑されます。

その後松陰の死に悲しんだ弟子たちは倒幕の意を固めます。中でも高杉晋作と久坂玄瑞は後の尊攘運動の中心となっていきます。

今回はこれで終わります。
次回は
土方歳三
久坂玄瑞
坂本龍馬2のどれかになると思います。

幕臣一覧

幕臣の一覧です。
勝海舟

第四回勝海舟1

以蔵を書くとなど言っていましたが、龍馬伝で以蔵が死んでから2週間はど経つのでイマサラという気がするで海舟にします。

勝海舟1823年(文政6年)~1899年(明治32年)
untitled.gif



僕の考えでは幕府側の英雄は新撰組を除けばこの海舟でしょう。

結構好き嫌いある人物ですが僕は好きですねw
行動力が高い人間が好きなので、日清戦争も清国を侵略するより、共闘する方が良かったのかと思います。
奴隷より仲間の方が清国も信頼するでしょうし、もし、清国に攻め入られても清国と日本ならどちらが勝つかは見えてきますし。

通称麟太郎、本名義邦、安芳

貧乏旗本の子、麟太郎
麟太郎は1823年に旗本勝小吉の子として生まれました。
生まれたばかりの海舟を見た易者が「いずれ天下を動かす大人物になる」と予言しました父は疑いながらも大喜びをしたというエピソードがあります。
それが当たったんだから、この易者スゲェな・・・・

小吉のおばの阿茶の局にあいに、何と江戸城に行った時、将軍徳川家斉に気に入られ、病弱だった家斉の孫の初之丞(一橋慶昌)の遊び相手となります。

このおかげで幕臣となったのか?否、それは後で・・・・

塾の帰り道に、麟太郎は犬にかまれます。なんとキ○タマを・・
生死の境をさまよっていましたが、無事回復します。

そのとき、小吉はなんと毎日水垢離(神社の前で裸になって水をかけてお参りする)をして息子の回復を祈願したそうです。
そのおかげかもしれません。

男谷道場と島田道場
麟太郎はあの事件以後、身を守る術を身につけないといけないのかと思ったのか、小吉の従兄弟男谷誠一郎に剣術を学びます。

元来剣術の天性を持っていたのか、メキメキ腕を上げ、後に男谷の弟子の島田虎之助の道場で住み込みとして修行し、免許皆伝となります。また、島田の勧めで禅や蘭学も学んでいます。

慶昌の死と蘭学
何故、麟太郎が家臣になれなかったのかというと、簡単、慶昌がなくなったからです。
一橋家の6代目当主となった1年後慶昌が病死します。

島田の勧めで蘭学を学びます。
まずは蘭学者箕作阮甫の弟子となろうとするが断られます。そして、次は永井青崖を頼り弟子となります。
また、佐久間象山とも知り合い弟子になり、これからの日本について、学び驚愕します。

また、この時期に「ズーフ・ハルマ」という、蘭和辞書を欲しがり、赤城という人から借り1年かけて2部筆写します。このうち一部を売り、金を作り、その金で私塾海舟塾を作ります。

次回に続きます
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