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第五回桂小五郎1

第五回は桂小五郎です。
言うまでもなく木戸孝允です。
穏健派攘夷の代表格として知られていますね。
桂小五郎1833年(天保4年)~1877年(明治10年)
katsura.jpg
彼は非常に繊細な性格だったらしいです。
晋作や西郷の影に隠れがちですが、それは彼が常識人だったからでしょう。
西郷も晋作も常識離れしていたからね

小五郎の少年時代
小五郎は1833年に藩医、和田昌景の息子として生まれました。
7歳のときに武士、桂家の養子となり、翌年和田家に戻ってきます。

katura1.jpg
小五郎生誕地

小五郎はいたずら好きだったと言われてます。
冷静な小五郎とはイメージがつきませんね

10代になると藩主・毛利敬親に気に入られ、褒賞をもらっています。

16歳のときに母、さらには姉まで死んでしまいます。

悲しみにくれながらも、17歳のとき藩校の明倫館に入学します。
そこである人物に出会います。
そう、吉田松陰です。
松陰は当時、明倫館の師範でした。小五郎は松陰に兵学を学び、松陰は小五郎のことを高く評価しています。
あ、言っておきますが小五郎は松下村塾生ではありませんよ^^
でも、松塾生徒はかかわりが深く、晋作や伊藤博文などに良き兄貴分として親しまれました。

剣術と学問
小五郎は1846年に新陰流の内藤作兵衛の道場に入門し、もともとの才能もあり、腕をバリバリ上げていきます。
1852年江戸に剣術修行に行きます。

江戸三大道場の斎藤弥九郎の練兵館に入門し、神道無念流の免許皆伝となり、塾頭になります。

藩命で帰国するまで間に剣豪として日本全国に名をとどろかせます。

思えばこの小五郎にせよ、龍馬、近藤勇、武市半平太、斎藤一、勝海舟、土方歳三、沖田総司幕末の英雄たちは剣術の達人も結構いますね。

-1854年 ペリー二度目の来航-
このときに江川太郎左衛門に頼んでペリー艦隊を見学します。

異国の恐ろしさを知った小五郎は砲術や造船術、外国語など、異国の知識を取り入れていきます。

松陰処刑
1858年、幕府が天皇の許可なくアメリカと日米修好通商条約を結んだことを知って起こった松陰は、条約を結んだ間部詮勝の暗殺計画を企て、弟子たちにも協力を頼みますが、協力しようとしたのは入江九一ぐらいで、小五郎も猛反発しました。松陰は晋作に協力を頼みますが晋作にも反対され計画は失敗します。

間もなく松陰は捕えられ、長州の野山獄につながれます。

安政の大獄が始まると、松陰は江戸の伝馬町牢屋敷に送られ、罪は島流しになろうとしていましたが、井伊直弼は斬首という判決を出し、松陰は処刑されます。

その後松陰の死に悲しんだ弟子たちは倒幕の意を固めます。中でも高杉晋作と久坂玄瑞は後の尊攘運動の中心となっていきます。

今回はこれで終わります。
次回は
土方歳三
久坂玄瑞
坂本龍馬2のどれかになると思います。
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第二回高杉晋作1

第二回は幕末の長州の英雄高杉晋作です。

高杉晋作 1839年(天保10年)~1867年(慶応3年)

諱は春風、変名は谷梅之助など

そーいや、いうの忘れてましたがこのブログは人物の紹介→何をしてどう生きたか→僕の感想という風に進めていきます

高杉晋作といえば長州で一番人気のある倒幕志士で、奇兵隊を設立した人として有名です。

その異常な人気はどこから来るのか、それを見ていきたいと思います。

まぁ、結論を先に言えば行動力の高さですねw

takasugisinsaku.jpg
↑の写真を見てもらえば分かる通りた高杉は痩せていて、それでいて小柄で切れ長の目を持つなんてことはない男です。

とてもアーネスト・サトウに魔王と言わしめた男には見えません^^

この人、伊達に高い人気を誇るだけありませんwww
相当のことを成し遂げています。
実際僕の一番好きで、尊敬する人物です。

幼き頃の晋作

さて、晋作は1839年に長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太の息子として生まれました。
高杉生家
高杉生家

10歳の時に天然痘にかかっているそうですが、さすがは晋作。
無事生存しています(痩せているのはそのせい?)

松下村塾と吉田松陰

1852年に藩の明倫館(長州の藩校)に入学しています。

そして、1957年にあの吉田松陰が作った松下村塾に入学しています。

ph_01.jpg
松下村塾

松下村塾には後の最高の相棒になる久坂玄瑞、初代内閣総理大臣になる伊藤俊輔(博文)、奇兵隊の仲間でもあり朝陽丸事件の和解を成し遂げた吉田稔麿、鹿鳴館を作ることになる井上聞多(馨)などの同志たちが集まっていました。

松陰の晋作に対する評価は非常に高く久坂玄瑞と並んで松下村塾の双璧と言われました(そこに稔麿を加えると三秀、三秀に入江九一を加えると四天王になります。)

晋作に高い評価を残したのは松陰だけではなく吉田稔麿(松陰との血縁関係はありません)は久坂を坊主(医者の子だが堂々たるものという意味)、入江を木刀(えらいが真剣ほどではない)、山県有朋をただの木の枝(笑)
とすると暴れ牛だそうです。これは高杉の制御しなくては収拾のつかない性格を表しています。逆を言えば制御すればこれ以上の人物は望めないということです。後に明治政府の代表として活躍した山県が木の枝なのですから、生きていたら初代総理大臣は当たり前でしたでしょう。

image9.jpg
吉田松陰

image5.jpg
久坂玄瑞

1858年に江戸に留学します。

1859年には吉田松陰が安政の大獄で斬首になります。
その悲しみを胸に誓い、倒幕の意思を確固たるものします。

次回に続きます。
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