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第三回武市半平太1

第三回は土佐勤王党の盟主半平太こと、武市瑞山です。
勝海舟の予定でしたが、龍馬伝で半平太が切腹したのでその追悼として書きます(その次は以蔵)

武市半平太 1829年(文政12年)~1865年(慶応元年)
諱は小楯、通称半平太、号は瑞山

半平太は大河ドラマなどで利用されるだけ利用された後切腹するため、「物事の視野が狭い」、「勉強ができるが頭が悪い」等に取られることが多いかもしれませんが、頭もいいですし、物事の視野も当時の人々と何ら変わりません。視野が狭いと取られるのは彼の長所であり、また最大の弱点のせいです。詳細は後述・・・

hanpeita.jpg
半平太の肖像画は他にもありますが、敢えてこれを選びました。
半平太のイメージに一番近いので・・・
見た目は色白で、当時にしては上背が非常に高く180cm前後もありました。
また、人望が非常に厚かったそうです。頭もよい上に、剣術にも長け、おまけにイケメンとまさにエリートを具現化した人物です。

土佐勤王党を作った人物として有名です。

・剣術修行
半平太は1829年9月27日に土佐で白札、武市正恒の息子として生まれました。
土佐藩では上士と下士で分けられており、白札は下士の最上級、もしくは準上士核としての扱いでした。
他の下士との決定的な違いは登城を許されているということです。
1083970654.jpg
半平太生家

半平太は10歳のときに徳永千規に入門して学問、12歳のときには剣術を学びます。
そこで半平太は剣術の腕を上げていき、安政元年に剣術の免許皆伝をもらっています。

他にも半平太は砲術を習っていたらしいです。
有名な話ですが半平太は絵を好んでおり、日本画と洋画両方とも描けたらしいです。

・半平太と龍馬
龍馬と半平太は仲が良かった・・・というか親友だったと言われています。
龍馬と半平太がいつであったのかは知りませんが、龍馬が小さい時か、江戸に剣術修行に行った時のどちらかでしょう。
また、この二人は遠い親戚なので、泣き虫だった龍馬を半平太が道場に連れて行く姿を想像するのは非常に簡単です。
龍馬の性格は小さいことを気にしない能天気な性格、頭はあまり回らないが物事の視野が非常に広い。対する半平太は几帳面で、頭が切れるエリート、剣の達人だったことを除けば正反対の性格じゃねえか!と突っ込む人も多いでしょう。
半平太は陽気な龍馬と話すことは非常に楽しく、心が安らいでいたらしいです。吉村寅太郎や平井収二郎らとも親しかったようですが、やっぱり他の人たちとは違う雰囲気を龍馬は持っていたらしいです。

・半平太結婚
半平太が20歳のときに両親が亡くなり、半平太が家督を相続することになります。
高齢の祖母の面倒をみるためにも半平太は1849年、島村源次郎の娘、富子と結婚します。

また、半平太は愛妻家として知られ、半平太と富子に子ができないことを心配した吉村が富子を実家に帰らせた後、若い女たちを半平太に送りつけましたが、半平太は全く手をつけず、吉村を叱りつけた言われています。江戸時代なら10年間も一緒に暮らし、一人も子供が生まれなければ普通なら家を追い出されて当然なのに半平太は全くそんな事をしませんでした

・西国遊行
1850年に半平太は武市道場という名の剣術道場を作り、その道場が人気を博します。ここには中岡慎太郎、岡田以蔵らがいて、勤王党の母体になります。ここは新撰組にも共通します。新撰組の母体は試衛館という剣術道場です。

1856年に半平太は以蔵、山本琢磨たちと江戸に剣術修行に出かけ、桃井道場に入門します。そこで半平太は塾頭となります。

1860年、半平太は以蔵たちとともに武者修行を口実に西国諸藩の動向を観察しに行きます。途中で長州の高杉晋作や久坂玄瑞、桂小五郎らや薩摩の樺山三円らと知り合い、国事を語ります。半平太は特に久坂と仲が良かったらしいです。久坂は半平太を尊敬し、半平太は吉田松陰の思想に共鳴します。

・勤王党結成
土佐の攘夷が遅れていることを知った半平太は、1861年大石元敬と土佐勤王党を作ります。
勤王党には龍馬、吉村、収二郎、以蔵、中岡慎太郎、那須新吾らがいました。
加盟者はほとんどが下士、地下浪人です。
なぜ上士がほとんどいないのかその理由は簡単、上士だからだ。
無論、上士にも勤王論者はいる。
しかし、その佐々木高行や谷干城らは自分たちの地位が悪くなるのを恐れて影での援助しかしなかったヘタレ達である。
そこから武市は朝廷をも動かす力を持ち、そして文久3年8月18日の政変以後衰えていきます。
次回に続きます。

長州藩士一覧

長州藩士一覧です。
高杉晋作
桂小五郎
久坂玄瑞

第二回高杉晋作1

第二回は幕末の長州の英雄高杉晋作です。

高杉晋作 1839年(天保10年)~1867年(慶応3年)

諱は春風、変名は谷梅之助など

そーいや、いうの忘れてましたがこのブログは人物の紹介→何をしてどう生きたか→僕の感想という風に進めていきます

高杉晋作といえば長州で一番人気のある倒幕志士で、奇兵隊を設立した人として有名です。

その異常な人気はどこから来るのか、それを見ていきたいと思います。

まぁ、結論を先に言えば行動力の高さですねw

takasugisinsaku.jpg
↑の写真を見てもらえば分かる通りた高杉は痩せていて、それでいて小柄で切れ長の目を持つなんてことはない男です。

とてもアーネスト・サトウに魔王と言わしめた男には見えません^^

この人、伊達に高い人気を誇るだけありませんwww
相当のことを成し遂げています。
実際僕の一番好きで、尊敬する人物です。

幼き頃の晋作

さて、晋作は1839年に長門国萩城下菊屋横丁(現・山口県萩市)に長州藩士・高杉小忠太の息子として生まれました。
高杉生家
高杉生家

10歳の時に天然痘にかかっているそうですが、さすがは晋作。
無事生存しています(痩せているのはそのせい?)

松下村塾と吉田松陰

1852年に藩の明倫館(長州の藩校)に入学しています。

そして、1957年にあの吉田松陰が作った松下村塾に入学しています。

ph_01.jpg
松下村塾

松下村塾には後の最高の相棒になる久坂玄瑞、初代内閣総理大臣になる伊藤俊輔(博文)、奇兵隊の仲間でもあり朝陽丸事件の和解を成し遂げた吉田稔麿、鹿鳴館を作ることになる井上聞多(馨)などの同志たちが集まっていました。

松陰の晋作に対する評価は非常に高く久坂玄瑞と並んで松下村塾の双璧と言われました(そこに稔麿を加えると三秀、三秀に入江九一を加えると四天王になります。)

晋作に高い評価を残したのは松陰だけではなく吉田稔麿(松陰との血縁関係はありません)は久坂を坊主(医者の子だが堂々たるものという意味)、入江を木刀(えらいが真剣ほどではない)、山県有朋をただの木の枝(笑)
とすると暴れ牛だそうです。これは高杉の制御しなくては収拾のつかない性格を表しています。逆を言えば制御すればこれ以上の人物は望めないということです。後に明治政府の代表として活躍した山県が木の枝なのですから、生きていたら初代総理大臣は当たり前でしたでしょう。

image9.jpg
吉田松陰

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久坂玄瑞

1858年に江戸に留学します。

1859年には吉田松陰が安政の大獄で斬首になります。
その悲しみを胸に誓い、倒幕の意思を確固たるものします。

次回に続きます。

土佐藩士一覧

土佐藩士の一覧です。

坂本龍馬
武市半平太

第一回坂本龍馬1

第一回は文句なしの幕末の英雄として莫大な人気を誇る坂本龍馬です。



坂本龍馬1835年(天保5年)~1867年(慶応)

諱は直方というそうです。

龍馬
                                                   

・龍馬生誕

龍馬は才谷屋の坂本八平と坂本幸から生まれました。
龍馬の名の由来は母親の幸が龍馬を産む前の夜に龍が飛ぶ夢を見たことからだそうです。



・龍馬はどんな人物か
龍馬は剣の名人としても知られます。北辰一刀流の免許皆伝というところからもそれを伺えます。
龍馬は背が高かったそうです。高いと言っても170台後半あたりだそうです。現代ではこれが普通ですが当時は男性でも150台だったと考えると相当背が高いようです。



・剣術修行と黒船
龍馬は1853年江戸に溝渕広之丞とともに江戸に剣術修行に出かけます。千葉道場に行ったのはもちろんこのときです。

そして、千葉定吉に北辰一刀流の剣術を学ぶはずですが・・・・・・・・・定吉は鳥取藩に行っていたので教えたのは重太郎でしょう(そして重太郎は龍馬の良き友となる)

そして1854年龍馬は江戸で黒船を見ます。(ドラマ同様すごい衝撃だったでしょうね。)

ちなみに↓は黒船来航の写真です

250px-1853Yokohama_01.jpg

そして短い間ですが佐久間象山の弟子になります。



・帰国
帰国後、ジョン万次郎からアメリカの話を聞いた河田小龍が安政の大地震により土佐に戻っていため海外事情や軍隊について学びます。(この頃に近藤長次郎と出会います)

そして、不幸なことに1855年、龍馬の父、八平が他界します。



・山本琢磨
不幸を乗り越え、龍馬は藩の許可を得て再び剣術修行に出かけます。この頃武市半平太や岡田以蔵、龍馬の親戚山本琢磨も修行に出かけています。

同年、なんと、琢磨が酒を飲んだ後の帰り道、商人とぶつかり、商人が落としていった珍しい時計を売り飛ばしました!
琢磨は切腹沙汰になりましたが、龍馬と半平太が逃亡させています。

なお、琢磨はその後、新潟に逃げ込み前島密と知り合い函館に行き函館に来ていたニコライ神父に感銘を受け、日本人最初の司祭となり、80年も生きました。

そして、1858年龍馬は北辰一刀流の免許皆伝を得て、帰国します。

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